甲府地方裁判所都留支部 昭和41年(タ)1号 判決
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〔判決理由〕二婚姻生活の状況
(一) 原被告は、婚姻の挙式後、直ちに原告の実家たる円光院において同棲生活に入り、当初数年間の夫婦仲は極めて円満で、被告の姉妹が羨やむ程であり、その内両者間に、昭和二十七年七月長女、昭和二十九年二月二女、昭和三十一年八月三女が相次いで出生し、二女は出生後間もなく、被告の姉の養子となつた。
(二) 原被告間の愛情は、前記の通り親密であつたけれども、被告と原告の父母姉妹との間柄は、通常の家庭にあり勝ちな嫁姑小姑の関係を脱し切れず、原被告は昭和二十七年一月頃相携えて別居し、途中昭和二十九年六月頃約三ケ月間同居したものの再び別居を続け、昭和三十六年三月父が死亡したのを契機に、原告が円光院の後任住職に就任するため、原被告はようやく昭和三十七年三月頃円光院に復帰するに至つた。このように、被告と原告の親族との間柄は、相当の長期間に亘り意思の疎通を欠く状態が続いたが、かかる事情は、原被告間の愛情を一層緊密なものにこそすれ、決して両者間の婚姻生活を冷却させる重要な原因ではなかつた。
(三) 被告は、原告と婚姻後、間もなく明見小学校に転勤になり、依然として共稼生活を続けていたが、原告は、職業婦人である被告に対して兎角思いやりに欠け、且つ、教職と円光院の後継住職たるべき地位にあり乍ら、屡々女性関係に節度を失い勝ちであつた。即ち、○○中学校に奉職した頃、すでに訴外某女と婚前交際をしており、同女との関係を清算するや、今度は同僚の女教員訴外村上俊子と親しくなつて結婚を申込んだのに対し、同女の家庭の事情と、原告の素行を心配した同女の母親の反対に会い、婚約が成立しなかつたところ、次いで、前記のような経緯の下に被告と結婚するに至つたものであるが、原被告の婚約が調うや否や、宮下某と名乗る者より、被告の許に、原告の従前の素行と原告の家庭とを非難し、婚約を中傷した投書が舞い込む有様で、少からず被告の前途に不安を抱かせるものがあつた。その後、訴外村上俊子は△△中学校に転勤し、原告も昭和二十九年四月頃同中学校に転勤になつたが、原告は、既に結婚していた同女との間に格別の親しさを加え、教職員間の風評にさえ上るようになつたため、これが、被告及び訴外村上の夫らの非常な心労の種となり、原被告の家庭に風波が立つに至つた。それ許りでなく、原告は、同僚の女教員数名の外、○○市内の某女に対して特に親切な行動を示し、妻たる被告の思惑や家庭の平和など一向意に解しない態度であつた。その内、協議離婚の経歴ある訴外山本花子が、昭和三十七年四月頃△△中学校音楽科担任教師として赴任するに及び、原告はたちまち同女に接近して親交を結び、行動を共にすることが多くなつたため、原告、訴外村上、訴外山本等の三名の間柄が俗に言う三角関係の如き醜態を呈し、原被告の家庭及び訴外村上の家庭が愈々紛糾した末、教職員間のひんしゆくを買い、それが学校長の耳に迄入り、原告は同学校長より自重を求められる有様であつた。
(四) 右のように、原告の異性関係が兎角風評に立つので、心痛の余り被告が問い質すのに対し、原告は当初、単に否定するに止まつていたが、昭和三十四年頃より腕力に訴えるようになり、同年二月頃被告の頭部を壁に打ちつけたり、昭和三十七年三月頃被告の顔面を殴打して前歯二本を破損させたり、或いは昭和三十八年頃には被告の頭部をビール瓶で殴打する等の暴力沙汰を惹き起した。
(五) その間、被告は、昭和二十八年××小学校に転勤になり、昭和二十九年六月教職を退いた後、円光院附設の保育園の保母となり、一方原告は、教職にある傍ら、昭和三十七年三月頃円光院の後任住職に就任し、曲りなりにも、両者は昭和三十八年末頃迄夫婦間の愛情を維持していたが、その頃に至つても尚原告の異性問題が清算されず、却つて益々訴外山本花子との関係が取り沙汰される許りであつたので、思案に余つた被告は、学校長を尋ね、善後策を相談したところ、事を荒立てぬようにと慰められたことがあつた。ところが、これを知つた原告は、夫の社会的信用を失墜させたものとして大いに憤激し、爾後夫婦間の空気は極度に険悪さを加えた。かくて、翌三十九年一月十七日頃、原告は離婚届用紙を持ち来り被告に記入方を迫つたので、被告は、原告の興奮を一時柔らげる意図の下に所要事項を記載し、これを原告に交付したが、原告が一方的に右届出書を完備して戸籍吏に提出する虞があると考え、本籍役場たる富士吉田市役所明見出張所の係員に相談の上、その示唆に基づき、同年一月二十三日頃離婚届の不受理願を提出して置いた。従つて、原告において、右離婚届を整備し、同年二月四日頃富士吉田市役所に提出したけれども、同届出書は明見出張所に回付された後、不受理処分に付されて了つた。その夜原告は、擅徒の訴外某男等より説得されて、該届出書の提出を思い止まり、その取下方を訴外下村一男に委任した結果、該離婚届は同訴外人を経、明見出張所より原告に返戻された。
(六) 然し、その後に至るも原被告間の不和は一向に解消されず、献身的に奉仕する被告に対し、嫌悪の情を示しつづけた原告は、訴外学校長の忠言に逆らい、恩給年限に達する僅か二ケ月前の昭和三十九年三月、教員の退職願を提出すると共に、遂に被告に無断で単身郷里を出奔するに及んだ。そこで、被告とその親族及び円光院擅徒等の百方手を尽くした捜索により、原告は東京より連れ戻され、山梨県下の□□小学校に再就職したものの、勤務を疎かにするのみか、一年間の内地留学のため、現職のまま、同年四月より東京の国立音楽大学の聴講生となつていた前記山本花子と意を通じ、再三に亘つて往来する内、同女に対し、被告との間に事実上の離婚が成立している旨を告げてその同情を惹き、遂に同年七月頃より意気投合して内縁関係を結び、堅く将来を誓い合う仲となつた。同女は、やがて妊娠するに至つたため、昭和四十年三月末聴講生の課程を修了すると共に教職を退き、同年六月原告の子である男子を出産した後、同年九月頃より約四ケ月間、□□小学校教員住宅に原告と同棲生活を送り、次いで○○市の実家に帰つた。その頃被告が、三回に亘り□□の原告を訪問したけれども、原告は全然取り合わなかつた。
(七) 原告は、昭和三十九年十二月頃、被告を相手取り甲府家庭裁判所に離婚の調停を申立てたが、翌四十年一月頃これを取下げ、更に同年七月頃同裁判所に再度同趣旨の調停を申立てたが、同年十月頃不調に終つた。又、被告より原告を相手に、昭和四十年二月頃同裁判所に婚姻費用分担等の調停を申立てたところ、これは、被告が第二項(六)において主張する条項通り成立し、該調停により、原被告は同居可能の時期の到来する迄、当分別居せざるを得ないこととなつた。
(八) このような事態に立ち至つたため、円光院の擅徒は同寺院の運営に困り果て、昭和三十九年十一月擅徒有志一同をもつて、被告を住職代理に推戴する旨の決議を行い、又、昭和四十一年四月二十三日には、原告の親族等に対し、無断で円光院に出入することを固く拒絶する旨の内容証明郵便を発するに及んだ。
(九) 而して原告は、昭和四十一年三月一身上の都合により教員を退職し、更に、円光院擅徒有志の切なる願いを斥け、昭和四十二年二月には同寺院の住職をも依願退職して了つた。その上、被告と婚姻生活を復活することを峻拒しつづけ、訴外山本花子との結婚を切望する旨表明している。これに対し被告は、保育園に勤務する傍ら二人の子女を養育すると共に、円光院の仏事に精進して擅徒の同情と信望を集め、只管原告の帰来を待ちわびている状況にある。
三離婚意思確定の主張について
そこで最初に、一旦原被告間に適式な協議上の離婚届がされ、双方の離婚意思が確定したのであるから、かかる場合は民法第七百七十条第一項第五号に該当する旨の、原告の主張について検討を加えることとする。先ず、協議上の離婚制度は、夫婦の共同生活が回復不可能にまで破綻したか何うかの問題は、当事者が最もよく判断し得る筈であるから、両当事者間に自由平等な立場において離婚の合意が成立した場合、出来得る限り軽易な手続により、離婚の効力を認めようとする趣旨に出たものであることが明らかである。そこで現行法は、協議上の離婚につき、実質的要件として、当事者間の離婚をする合意と、形式的要件として、書面による離婚の届出とを要求するに止めている。かように、当事者の自由意思を尊重する制度なのであるから、離婚の合意は、離婚届出書作成のときに存在するのみでは足りず、実際の届出のときも存在しなければならないと解するのが相当であり、従つて、当事者間に自由な意思に基づく離婚の合意が成立していない場合は勿論のこと、一旦離婚の合意が成立し、適式な届出が作成されても、その提出前に当事者の一方が離婚意思の撤回を表示した場合などは、何れも離婚意思の合致を欠くことになり、協議離婚としての効力がないものと言うべきである。ところで、本件においては既に認定した通り、被告は、離婚の意思などないのに拘らず、原告よりの強制に基づき、且つ原告の不興を和らげる方便の下に、離婚届に所要事項を記載したに止まり、その上、本籍役場に対し、該届出書の不受理願を提出して明白に離婚意思の不存在を表明していたものである以上、後に原告の提出した離婚届が不受理処分に扱われたのはまさに当然の帰結と言わねばならない。そうだとすると、該離婚届の各欄の作成経過につき、詳細に亘つて事実認定をする迄もなく、原被告間に協議離婚が成立したことを肯定することが出来ないし、又、事実上の離婚若しくは離婚意思確定の段階に迄進んだものとも認められず、まして、これ等の事情が、裁判上の離婚原因たる、婚姻を継続し難い重大な事由に該当するものとは到底考えられないので、以上の説示に反する原告の主張は、失当として排斥を免かれない。
四性格の不一致、被告の異常性格、愛情喪失等の主張について次に原告は、原被告間の性格の相違、被告の異常性格、原被告間の愛情喪失等の事情が、最早婚姻関係を回復し難い程度に達していると主張するので判断するに、右の内、被告が異常性格の持主であるとの点に関しては、全立証を仔細に検討しても、これを肯認すべき的確な証拠は存在しない。却つて、被告の経歴、学歴、職業歴などより考えると、被告は、女性として通常人以上の教育を受け、多年に亘り堅実な職業に従事し、且つ平凡な家庭の主婦であることを推認するに充分な許りか、原告の母は、被告が異常性格者などに該当しない旨明確に証言しているので、この点に関する原告の主張は採用し難い。次いで、性格の不一致と愛情の喪失の主張について判断を進めるに、婚姻はもともと、生育環境、家庭、年令、素質、体質、学業、職業などの異る男女が、無期限に夫婦関係を成立させる意思の下に結合されたものである以上、性格の不一致ということは、多かれ少なかれすべての夫婦について言えることであるから、これを理由に離婚を請求した場合には、その不一致の程度、これを調整克服するために費した双方の努力、並びに円満な婚姻生活回復の可能性等につき、客観的にして然も慎重な判断を要すべきところ、前認定の事実によれば、原告が被告に対する嫌悪、反感の念から、遂に自から進んで別居する迄に至つたのは、被告に、生来極度の猜疑心、嫉妬心、執拗陰険性、ヒステリー的症状等が備つていたためではなく、原告が異性関係にふしだらで、次々と被告の嫉妬心を煽る行動に出たことが最大の原因であり、原告さえ教職と僧職に相応する生活態度を執り、先ずもつて自己の家庭の平和を愛するとの信条に立つていたならば、今日の原被告間の性格、感情の対立は生じなかつたものと推認するのを相当とすべく、従つて、原被告間に、その婚姻を継続するに困難な程度の性格不一致が存在するとは、到底認めることが出来ない。愛情の喪失についてもまた同様であつて、被告が、原告及びその親族に対して冷淡な仕打ちと心情に出たために、原被告間の愛情が冷却するに及んだと認めるに足りる確実な証拠が存在しない許りか、却つて、子女の養育に専念する傍ら保育園の保母を勤め、家庭の幸福一筋に苦闘する被告を無視した末、一方的な恣意に基づき、次から次えと魅力を感ずる妻以外の女性に関心を移した原告の行動が、今日の如く被告と意思の疎通を欠く状態を招いたと認める外はないから、如何に原告の被告に対する嫌悪の情が主観的に強固であろうとも、それは夫婦間の協力扶助義務を怠つた男性の身勝手と言うに過ぎず、未だ愛情喪失による婚姻の破綻には至つていないものと言わねばならない。以上の次第であるから、原告の主張はすべて採用し難い。
五本訴請求の当否について
ところで、前認定の通り、被告が、原告の留守中貞節を守り、子女を養育し、保母を勤め、且つ円光院の仏事に精進して原告の帰来を強く要望しているのに拘らず、原告は、昭和三十九年三月に家出して以来、未だに被告の許に復帰しない許りか、教職と僧職の地位を共に捨て、その上、曾つての同僚訴外山本花子と内縁関係を結び、その間に一児迄儲けている仕末なので、原被告間の婚姻関係は最早回復不可能の段階、即ち破綻に陥つているかの如く疑われないではない。なる程、原告が、今直ちに従前の地位と婚姻関係とを一挙に回復することの至難なことは推測に難くない。然し、前認定の諸事情を綜合して勘案すれば、原告の翻意の仕方如何により、原告が被告との間に最少限度の規模において婚姻生活を回復することは、必らずしも不可能でないと認められるので、未だ原被告間の婚姻関係は破綻していないと認定するのを相当とする。たとえ、既に破綻の程度に達していると仮定しても、そのようになつたことは、専ら原告の女性関係、特に軽卒にも訴外山本花子と内縁関係を結び、その間に一児を儲けたことに起因するものであり、他方被告には取り立てて言う程の欠陥がなく、只管原告の復帰を期待しているのであるから、破綻の責任は大半原告にあると言わねばならない。而して、民法第七百七十条第一項第五号は、相手方の有責行為を必要とするものではないけれども、何人も自己の背徳行為により勝手に夫婦生活破綻の原因を作り乍ら、それのみを理由として、相手方が尚婚姻の継続を望むのに拘らず、右法条により離婚を強制するが如きは、道徳観念の到底許さないところであつて、かかる請求を認容することは法の認めないところと解さざるを得ない。(石垣光雄)